一々に論ぜんもうるさければただ二、三首を挙げ置きて『金槐集』以外に遷(うつ)り候べく候。

山は裂け海はあせなん世なりとも君にふた心われあらめやも

箱根路をわが越え来れば伊豆(いず)の海やおきの小島に波のよる見ゆ

世の中はつねにもがもななぎさ漕ぐ海人(あま)の小舟(おぶね)の綱手かなしも

大海(おおうみ)のいそもとどろによする波われてくだけてさけて散るかも

 箱根路の歌極めて面白けれども、かかる想は古今に通じたる想なれば、実朝がこれを作りたりとて驚くにも足らず、ただ「世の中は」の歌の如く、古意古調なる者が万葉以後において、しかも華麗を競ふたる新古今時代において作られたる技倆(ぎりょう)には、驚かざるを得ざる訳にて、実朝の造詣(ぞうけい)の深き今更申すも愚かに御座候。大海の歌実朝のはじめたる句法にや候はん。
 新古今に移りて二、三首を挙げんに

なごの海の霞のまよりながむれば入日(いりひ)を洗ふ沖つ白波
(実定(さねさだ))

 この歌の如く客観的に景色を善く写したるものは、新古今以前にはあらざるべく、これらもこの集の特色として見るべき者に候。惜むらくは「霞のまより」といふ句が疵(きず)にて候。一面にたなびきたる霞に間といふも可笑(おか)しく、縦(よ)し間ありともそれはこの趣向に必要ならず候。入日も海も霞みながらに見ゆるこそ趣は候なれ。

ほのぼのと有明の月の月影に紅葉吹きおろす山おろしの風
(信明(のぶあき))

 これも客観的の歌にて、けしきも淋(さび)しく艶(えん)なるに、語を畳みかけて調子取りたる処いとめづらかに覚え候。

さびしさに堪へたる人のまたもあれな庵(いお)を並べん冬の山里
(西行(さいぎょう))

 西行の心はこの歌に現れをり候。「心なき身にも哀れは知られけり」などいふ露骨的の歌が世にもてはやされて、この歌などはかへつて知る人少きも口惜(おし)く候。庵を並べんといふが如き斬新にして趣味ある趣向は、西行ならでは得(え)言はざるべく、特に「冬の」と置きたるもまた尋常歌よみの手段にあらずと存候。後年芭蕉が新(あらた)に俳諧を興せしも寂(さび)は「庵を並べん」などより悟入(ごにゅう)し、季の結び方は「冬の山里」などより悟入したるに非ざるかと被思(おもわれ)候。

閨(ねや)の上にかたえさしおほひ外面(とのも)なる葉広柏(はびろがしわ)に霰(あられ)ふるなり
(能因(のういん))

 これも客観的の歌に候。上三句複雑なる趣を現さんとてやや混雑に陥りたれど、葉広柏に霰のはじく趣は極めて面白く候。

岡の辺(べ)の里のあるじを尋ぬれば人は答へず山おろしの風
(慈円(じえん))

 趣味ありて句法もしつかりと致しをり候。この種の歌の第四句を「答へで」などいふが如く、下に連続する句法となさば何の面白味も無之候。

ささ波や比良(ひら)山風の海吹けば釣する蜑(あま)の袖かへる見ゆ
(読人しらず)

 実景をそのままに写し些(さ)の巧(たくみ)を弄(もてあそ)ばぬ所かへつて興多く候。

神風や玉串の葉をとりかざし内外(うちと)の宮に君をこそ祈れ
(俊恵(しゅんえ))

 神祇(じんぎ)の歌といへば千代の八千代のと定文句(きまりもんく)を並ぶるが常なるにこの歌はすつぱりと言ひはなしたる、なかなかに神の御心(みこころ)にかなふべく覚え候。句のしまりたる所、半ば客観的に叙したる所など注意すべく、神風やの五字も訳なきやうなれど極めて善く響きをり候。

阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の仏たちわが立つ杣(そま)に冥加(めいか)あらせたまへ
(伝教(でんぎょう))

 いとめでたき歌にて候。長句の用ゐ方など古今未曾有(みぞう)にて、これを詠みたる人もさすがなれど、この歌を勅撰集に加へたる勇気も称するに足るべくと存候。第二句十字の長句ながら成語なればさまで口にたまらず、第五句九字にしたるはことさらとにもあらざるべけれど、この所はことさらとにも九字位にする必要有之、もし七字句などを以て止めたらんには、上の十字句に対して釣合取れ不申候。初めの方に字余りの句あるがために、後にも字余りの句を置かねばならぬ場合はしばしば有之候。もし字余りの句は一句にても少きが善しなどいふ人は、字余りの趣味を解せざるものにや候べき。

(明治三十一年三月三日)